「海が見たい」理由というのも、亡くなった父親が「海の水の味を知っているか?」と問いかけてその答えを言わないまま亡くなってしまったということで、もちろん、現実にそうであれば真に迫る動機なのでしょうが、フィクション作品であれば「とりあえず可哀想設定を重ねました」程度にしか思われません。
実際に海を見たジョゼの反応も「ほんまにしょっぱいな~、ははは」と言いながら恒夫といちゃつくという有様で、禁を破り命を賭してまで海に行きたかった人間の反応とは言い難いのです。
しかも、この「亡くなった父の言葉」という設定が後々の展開に影響を与えることはなく、「初めて海を見た女性と、初めて海を見せてあげた男性」という、いかにも素人が考えたロマンチックシーンをつくるためだけに存在するとしか考えられない使い捨て設定となっています。
その後の展開として、恒夫がジョゼを家から連れ出して大阪各地(舞台は大阪です)の色々な場所をデートするというシーンが続くのですが、これがまた単にデートするだけであり、物語を盛り上げたり、あるいは盛り上がりの前兆としての深刻なシーンを挟むということをしてこないので、「何を見せられているんだ」という気持ちになります。
しかも、このデートのあいだに二人は惹かれあっていくということになっているのですが、そう感じさせるような事件が起こるわけでもないので、見ている側からすれば「ふぅん」という気持ちになってしまいます。
一応、終盤の展開に繋がる伏線として、図書館で子供たちに本の読み聞かせをしようとするが上手くいかない、動物園の虎を一人で見るのが怖い、という、ジョゼが克服するべき「課題」も提示されます。
しかし、どう考えても、この二つの課題は人生においてさして重大なことではありません。
こんな物語では、まるで自分事のように共感し、ジョゼに感情移入していけるという人は少ないのではないでしょうか。
中盤に入ると、ジョゼの祖母が亡くなってしまうという事件が物語の転換点として現れます。
独り立ちを迫られたジョゼは趣味で描いてきた絵を捨て去り、事務の仕事に就くことを決意します。
密かに抱いていた芸術家になるという夢を捨て去ったジョゼのことを、恒夫は快く思いません。
そんな中、ジョゼと恒夫が再び海を見に行った帰りに、恒夫が交通事故に遭って足を負傷してしまいます。
もしかしたら、ずっと半身不随で生きていくことになるかもしれない。
大怪我を負った恒夫のことを、ジョゼはもちろん、恒夫の友人たちも心配し始めます。
留学に行くという夢を諦めかけてしまう恒夫を見て、ジョゼは再び絵を描き始め、自作の絵本を子供たちに読み聞かせるという場に恒夫を呼びます。
ジョゼなりに夢を追い始め、しかも、かつて挫折した本の読み聞かせという形でそれを表した態度に恒夫は感銘を受け、リハビリを頑張って怪我を克服。
二人とも夢を諦めず、お互いを想い合ってハッピーエンドとなります。
しかし、恒夫が足を負傷することで足が不自由なジョゼと同じ立場になり、そこから何かを見出すと思いきや、全く関係なく話が進むのは恐ろしく奇妙です。
「ジョゼはこんなふうに生きてきたんだな」的な「足が不自由トーク」の一つくらいあるのが普通でしょう。
リハビリを頑張れば治るかもしれない恒夫の足と、生涯にわたって絶対に治ることのないジョゼの足の対比なんかがあっても良かったかもしれません。
けれども、本作はそんな「人生の生きづらさ」という真に迫ることはなく、「恒夫が夢を諦めるわけあらへん」という台詞とともにジョゼが努力をし始めて恒夫が感銘を受けるという浅い展開に終始します。
これがなぜ強烈に浅く見えるかというと、序盤~中盤までのあいだに、恒夫は夢を諦めない人物だということや、ジョゼの絵に対する想いがそれほど深くは描写されていないんですよね。
「留学のために頑張ってます」「絵が好きです」程度の示し方に過ぎず、「そこまでの想いがあるのか」と思わさせられるような、印象的なシーンが一つもないのです。
なんとなく「製作陣の中ではそういう設定になってるんでしょうね」程度にしか思えないような、とにかく大声で叫べば感情や熱意が伝わるでしょうというような、そんなアピールしか視聴者に対してなされません。
物語全般において、最序盤の「車椅子が突き飛ばされて坂道を暴走する」を除いては胸に迫るような切実な事情や感情が示されないため、「目の前で絵が動いている」という以上の没入感を得づらい作品になっています。
だからこそ、リハビリが成功し、ジョゼも絵を続けることになって、二人が結ばれて、何もかもが上手くいってハッピーエンドとなっても、そもそもの「上手くいかなさ」「問題の深刻さ」の伝え方が雑なため、アンハッピーからハッピーへの起伏を感じることができないのです。
また、物語の大枠だけでなく、一つ一つの場面の取り扱いの軽さ、様々な事件に対する登場人物たちの言動や反応の軽さも罪深いものがあります。
当て馬役の二ノ宮舞が凄まじく軽率に恒夫に対して告白したり、半ば自分のせいで事故に遭ってしまった恒夫に対するジョゼの態度や言動が軽々しかったり、祖母が亡くなったことに対するジョゼの感情が一ミリも示されなかったり。
そういった、事態の深刻さと反応が釣り合っていないことも、本作を「所詮フィクション」と思われるような軽々しさに仕上げています。
また、常に「被害は外からやってくる」ことも物語の生々しさを削いでいると言えるでしょう。
恒夫もジョゼも様々な事情で苦境に立たされますが、その苦境を運んでくるのはいつだって外部的な事件です。
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